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kuhsan7411のブログ

30歳で脱サラ。寅さん稼業(ゲリラマーケッティング)を無一文から始めて、目黒区の商店街に小さな眼鏡店を開いた奮闘記。商売を始めてみたい方、お店を開きたい方には実践出来る参考例も。包丁の実演販売の神様やダービー2着馬の馬主との交友録。日本全国、股に掛けた「寅さん稼業」の体験は各地の県民気質や名店・グルメを語ります。また韓国美女と交際、結婚した縁で、日本と韓国の深い溝にも触れています。毎月には最新の商売・製品のトレンドが分かる展示会・見本市を紹介しています。

資金繰り危機一発を有馬記念で乗り切った1987年〔56〕

  何故か運転資金がショートした1987年12月!

  1985年から始まつたインポートフエアーで商売は順調だつたが、1987年後半は何故か一時的に売り上げが悪く、資金繰りに苦しみました。

 

その頃は2年間のインポートフエアーもほぼ全国一巡で、目新しくなくなり売り上げが低迷してきたのが原因だつたのかな、と思われます。

 

月末には韓国・朴社長へのフレーム支払い予定が約80万円ほどあり、まだ50万円たりないのです。東急ストアーからの支払いを計算しても、他への支払いもありますので、胃が痛い毎日でした。

 

売り上げが期待できる見本市もなく、最後の望みを託して横浜市産貿ホールの、年末恒例市に出店したのですが、目標には程遠い売り上げです。

 

このセールには何度か出店したことがあり、良い売り上げを記録したのはないので、ある意味期待通りの結果でした。

 

  有馬記念に賭けた大勝負!!万馬券的中で支払う!!!

 年末で銀行からの借金など金策の当てもなく、ここは競馬で資金調達しかないと、腹を決めました。

 恒例セール最終日が、日曜の有馬記念競走です。

 

前日の専門家予想で、今は亡くなりましたが大橋巨泉が話す、「今年の4歳馬は強い」との一言が気にかかっていましたので、好きな馬・メジロデュレンから人気薄の4歳馬への4点勝負に賭けました。

 

ダイナアクトレスダイナガリバーレジェンドテイオーメリーナイスサクラスターオーなど、いまでいうG1重賞馬ばかりの中で、人気薄の4歳馬ユーワジェイムス・ハシケンエルドへの勝負。

 当時は高配当が望める3連単どころか、馬連馬券も発売されていないので必然、枠連勝負しかできませんでした。

 

人気馬枠では目標金額50万に及ばないので、人気薄の馬を選ぶしか選択の余地はないのです。

ましてその日朝から買った馬券勝負は、午前中からすべて外れてばかりで、最後の頼みが有馬記念になったのです。それこそ天にも祈る気持ちで、商売どころではありません。

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(1987年有馬記念ゴール前)


レースはまずメリーナイスが落馬で始まり、直線でサクラスターオー競争中止。人気馬総崩れの展開になり、結果1着メジロデュレン・2着ユーワジェイムス・3着ハシケンエルド。単2410・複800・枠連16300(当時は馬連ナシ)。


 

商売途中なのでラジオの実況放送を、イアホンで聞いていましたが、最後の直線でメジロデュレンが先頭に躍り出てきた時は、それこそ思わず「行け!行け!そのまま!!」と叫んだくらい大興奮です。

 

 単・複に各3000円・枠連に4000円を賭けていましたので,総取りという最高の結果になり、約75万円の払い戻しです。

 

ハナ差3着のハシケンエルドが残っていれば、さらに人気薄なので枠連は3万円近い配当で、総配当は倍の150万になったはず。

少し悔しかったですが、その時は朴社長との支払い約束が守れた、という安どの気持ちで一杯でした。

 

それでも奇跡に近い的中で、店の販売を友人に頼み、伊勢崎町の場外馬券発売所へタクシーで即直行でした。

 

歓喜の私! 

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友人が似顔絵を描いてくれた!

翌月曜日は朴社長と彼女へ送金!!

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(左:朴社長・後に結婚した彼女・私)


 

京都先斗町で豪遊した友人!!

私が競馬に手を染めたのは、大学生になつて間もないころです。近所に独り住まいしている、岡山県出身の青年の影響でした。

 

彼は大工で稼いでいたので、暇な私はよく彼の家に行き、かつてに彼のステレオで音楽を聴いたりしていたのですが、ある時彼が自慢げに話すのです。

 

昨日大工の先輩と京都競馬場にいき、彼が万馬券を的中させ、28万ほどの大金を儲けたというのです。1967年か8年の頃です。

 

池田勇人首相の所得倍増経済路線が始まる前です。

大学初任給が4~5万円の時代なので、彼が手にした金額を現在の価値に直すと、約100万円くらいの金額になるでしょうか。

20歳の若者には手に取ったこともない大金です

 

競馬場からの帰り道、いつしょに行った先輩が、勝ったお金で先斗町へ芸者遊びに行こうと誘うのでした。

 

私より1歳年上の友人は、芸者遊びはもちろん女遊びも知らないので、嬉々として先輩の誘いに乗つたと言います。

 

大工の先輩は芸者遊びに詳しくて、まず京都の料亭は一現さん(初めて来店するお客)を取るところとそうでないところがある。

格式のある店はまずその様なお客さんを取らない。

 

歓迎する店でも,より歓待されるには、まず店に入るときに現金の入つた財布を女将さんに預け、このお金で遊ばさせてくれというのが、慣れた遊び人のやり方だという。

 

友人は先輩のいうとおりに大金の入った財布を預けると、芸者が4~5人呼ばれ太鼓持ちやで賑やかな宴会が始まつたそうです。

財布には当時の価値で100万円ほど入つているわけですから、置屋の女将にはこの上ない上客だつた、に違いありません。

 

田舎から出てきたばかりの大工見習の若者には、京都先斗町の芸者遊びは、それこそ浦島太郎の竜宮城の歓待にも勝るもので、夢心地の想いだつたでしょう。

まさに金銀サンゴの舞い踊りです。

 

残念ながら私は芸者遊びをしたことがないので、つまびらかに説明できないのが悔しいですね。

その後も友人からは、芸者遊びを聞かされるばかりでしたから。

 

 

男の遊びは、飲む・打つ・買うが王道だ!!!

宴会も終わりの段になると、女将さんがきて「どの芸者がお気に入りどすか?」と聞かれた。

 

気にいつた芸者を指すと、その娘が一晩中夜伽してくれたのだとか。

その夜は彼によると、まさに「夢のような夜、忘れられない一夜」と、浦島太郎になりましたとさ。

 

 

翌日店を出るとき財布を女将が返してくれたのだが、まだ10万円ちかく残つていたという。

2人で20万近い散財でしたが、彼のこの競馬豪遊伝は、その後の私の競馬への夢に大きな影響を与えてくれたのです。

 

その後はあなたが想像する通り、ビギナーズラックで余りにもよい思いをした彼は、競馬にハマり人生も狂い始めたのです。

 

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