7年在籍した大学卒業式に両親を呼ぶ(106)
【今週のお題「卒業」】
母親に心配かけ続けた学生時代
思いおこせば、私は小さい時から母親を心配ばかりさせていた。
幼稚園時には通園途中の橋の欄干によじ登り、歩く度胸試しを時々やっていた。
母がある時遠くからそれを見て卒倒しそうになった。
コンクリートでできた大きな橋だったが、間違って落ちれば即死する高さである。
小学4年生時には遠足の帰りに友だち3人と、近道の線路(日豊本線)を歩いていた所、後ろが騒がしいので振りかえると急行列車が止まっていた。
帰宅後そのことを母に言いそびれていたら、学校から呼び出しをうけ校長に説教されて、3時間も校長室に立たされた。
帰宅後にそのことを知った母に泣いて叱られた。
中学2年時には理科部員の私は、無断で薬品棚からペンシルロケットの火薬材料を持ち出し、自宅の土間でそれを調合中に大爆発させた。
玄関のガラス戸が粉々に吹き飛ぶほどの爆発事故で、暇な宮崎放送でニュースになった。
その事故で私が左眼を失明したことは、その後母を苦しめる結果となった。
退院後は一度も学校に行くことなく、父の仕事で兵庫県へひっ越ししたので、大変な迷惑をかけた先生方にお詫びすることなく今日まで来ている。
半世紀以上の昔の事だけど、そのことは今でも心残りになっている。
激動の学生時代と卒業への苦悩
さすがにそれ以降は両親を悲しませたくないと決心し、学業に励み性根も入れ替えたつもりだった。
しかし生来の利かん気が強い性格は、大学に入学後も簡単には治らなかった。
学内サークル活動・アルバイトに明け暮れ、さらには競馬にのめり込み、気が付けば大学7年生になっていた。
当時の学則では半期毎に納める学費を、3回滞納すると除名処分になった。
私はそれを7回続けて滞納したが、そのたびに事務局とかけあい復学できた。
ひよっとすると今でもその不名誉な記録は残っているかもしれない。
在籍6~7年目の古株になると、事務局も私が学生運動のリーダーと誤解していたみたいである。
復学手続きなどの用事で事務局へ行くと、腫れ物に触るような感じで丁重に扱われた。
私が入学した翌年(1968年)から日大闘争を初めとする、全共闘の学生運動が盛んになった時代である。
大学では第2外国語のドイツ語の単位取得に失敗 (講義の出席不足で,期末試験が受けられなかった)したので、最後の7年目は真面目に出席した。
講義では教授が「法OO-***」と読み上げて、学生番号で出席を点検するのだが、OOは入学した西暦年の下2桁の数字なので、在籍年数が全員に分かる。
教授もそこは心得ており私には気をつかって、番号の最後の数字しか読み上げないのであった。
しかしこの教室で同じ講義を受けている他の学生は、「俺が入学した時はまだ小学6年生だった奴もいる」と思うと、さすがに情けない気がしたものである。
ドイツ語だけで通学するのも暇なので、興味のある科目には出席して、卒業に必要な140単位をオーバーして、180単位以上もらった記憶がある。
卒業することが親孝行と決めた
在籍6~7年目にはさすがに私も心が折れそうになり、中退を幾度も考えたが、両親が貧乏な家庭から苦労して大学に行かせてくれた気持ちを察すると、安易に退学できなかった。
それでも就職はともかく大学だけは卒業しようと、7年目になると覚悟を決め、ついには就職にも取り組んだ。
とはいえ3年も余分に留年した私に、良い就職先はないと思っていたが、求人難の時代背景にも助けられ、世界的に有力な船舶関連団体に就職が決まった。
「卒業証書」という紙切れが持つ意味
就職して初めてもらった年末のボーナスが50万円を超えていたのには、もらい過ぎではないかと思うくらい驚いた。(実際、もらいすぎでした・・笑・笑)
その額は同じ年に就職した友人達の2倍近くあったが、横一列の待遇だった学生時代とは違う社会の現実を感じた。
また「卒業証書」という紙切れ1枚が、社会人としてスタートするにあたり、企業社会ではどの様な意味をもつのか教えられた。
それを熟知する親達はそれ故に愛する子供に、最高の教育を受けさせたいと願うのであろう。
私の両親もそうだつたのである。
就職試験合格後に、ニクソンショツクが起きて世間は不況になり、翌年受験の学生は、就職難にあえいだだけに, 人生どこで運に恵まれるか分からない。
親不孝ばかりしていた息子が就職を報告した時の、喜んだ両親の顔は忘れられない。
私もこの1年間は大学卒業後しばらくは、「卒業できないという、もがき苦しむ悪夢」に何度もうなされたほど辛いものだった。
卒業式を控えた数日前に、神戸の宝石店で買った金のネックレスを母にプレゼントした。
7年間何一つ苦情も言わず、私を支えてくれた感謝の気持ちだった。
アルバイトで得た2万円ほどのささやかなものであったが、それでも誰よりも喜んでくれた。
万博会場隣接の、千里が丘の大学講堂で行われた卒業式には、両親そろって参列してくれた。
卒業まで心配をかけ続けた両親に、ちょっぴり親孝行をした誇らしい気分だったのを覚えている。
本当は社会人になってからが恩返しの本番なのだが、それらしきことも出来ないまま、昨年10月母親の33回忌を終えた。
卒業前に母へネックレスをプレゼントしたことが、ほんの少しだけど私の気持ちを軽くしてくれている。
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