迫りくる首都直下型地震・・あなたの命をどう守る?(96)
阪神淡路大震災で救援に向かう・得た教訓とは?
今朝1月14日6時前の地震で目が覚めた方は多いでしょう。
横揺れから始まる地震なので、大した地震ではないと判断して、布団から抜け出ることはしませんでしたが、その後阪神・淡路大震災が起きたのも、今どきの季節・今どきの時間だつた事を、思い出しました。
正確には1995年1月17日午前5時46分。25年前の出来事です。
当時私の実家(といつても賃貸アパート・関西でいうところの文化住宅)は西宮市にあり、今は亡き父と末妹が住んでいました。
それぞれ直ぐ近くの文化住宅に別々に借りて生活していました。
無能な政治家だった村山富市と貝原知事!
地震が起きた当初1~2時間はTV等のマスコミでも情報があまり流れず、想像を絶した大地震という認識はありませんでした。
しかし夜が明け、明るくなるにしたがい各地の火事の映像とともに、地震の被害の大きさが報道され始めたのです。
後に述べますが、この時の社会党首・村山首相の無能ブリには今だに腹立たしい思いが残つています。
地震の初動対応の遅れを指摘された村山首相は、「何分初めてのことで、早朝でもありましたし」などと、寝ぼけた発言しているくらいです。
そのうちこの様な政治家は北朝鮮からミサイルが飛んできても、同じような無責任発言になんの疑問を感じないと思います。
首相になってすぐに出席したG7首脳会議では、各国首脳が国益をかけて熾烈に交渉する中、何もアピールできずに「わしは漁師のせがれです」しか話せなかつた愚鈍極まりない首相でした。
似たような政治家に、被災中の福島原子力発電所に「私は原子力発電に詳しいんだ」と豪語して乗り込み、わざわざ水素爆発させた首相や、昨年台風19号で大変な被害にあった千葉県の知事もいましたよね。
もう1人の無能政治家が、当時県知事の貝原俊民です。
これほどの大災害でありながら、自衛隊への災害救助派遣要請が行われたのは、地震発生後4時間たってからでした。
現在では信じられない怠慢ともいうべき遅さですが、要請が遅れた理由に、貝原知事の自衛隊嫌いが原因です。
彼の自衛隊嫌いは当時でも、つとに有名でした。彼が守るべき県民の命・財産よりも個人の感情が最優先されたのです。
後に元東京都知事の石原慎太郎は、貝原知事の自衛隊派遣要請が遅れたせいで、2000人の命が失われた、と批判しているほどです。
貴方が選挙で選ぶ、行政のトツプを間違うと命に関わることもある!
阪神・淡路大震災はその不幸な見本です。
詳細は他の機会に譲りますが、国と自治体の行政トツプが揃いも揃って無能だつたことが、被害を拡大させたのは間違いない事実です。
この様な無能政治家でも、村山富市は2006年桐花大綬章を、貝原俊民は2007年に旭日大綬章を国から授与されているのですから、勲章が泣きます。
震災の昼に家族の無事を確認!
目黒の眼鏡店を10時頃にオープンしてから、静岡に嫁いだ長妹から連絡が入り、まず末妹の無事が確認できたのですが、父とまだ連絡がとれていない状況でした。
父は警備会社で夜間巡回パトロールの仕事をしていましたので、自宅にはいないのでした。
しかし昼過ぎにはその無事が確認され、末妹とも直接連絡がとれてひと安心したのを覚えています。
しかし被害状況を聞くと、父の住んでいた住宅は道路側に大きく傾き、電柱にかろうじて支えられた状況で、危険すぎて室内には入れないとのこと。
末妹の部屋は仏壇が転倒し、自営業で宝石のデザインや販売をしていたのですが、材料や商品が室内に散乱し、どれから整理をしたらよいのか分からないと混乱していたのです。
長妹夫婦と救援に向かう!
いつもは兄(私)や姉(長妹)に助けを求めたことがない妹でしたが、今回ばかりは弱音を吐いていたので相当な被害と察し、静岡の妹夫婦とJR浜松駅で待ち合わせ、車で西宮に向かつたのです。
高速道路は救援に向かう数えきれないほどの消防車や救急車、自家用車で大混乱。
関西に近ずくと、ラジオでは高速道路や国道へは救援の妨げになるので、一般車両は乗り入れないでくれと、アナウンサーが悲鳴にも似た声で絶叫していました。
初動対応の遅れで道路は大渋滞!
地震の翌朝6時頃にようやく伊丹市を抜けて、西宮に到着したのですが、丁度その頃になつて一般車両の高速道路・国道への乗り入れ禁止が発令されたのを覚えています。
私たちの通行はギリギリセーフでした。
高速を降りた途中では、食料を買うためコンビニに何軒か立ち寄りましたが、どの店もお弁当類はすでに売り切れ、菓子パンや缶詰がわずかに残つているのみでした。
それでもかまわず買っていきました。
あのような緊迫した状況に遭遇するのは、人生たびたびあるものではないでしょうね。
畳に重病者・遺体を乗せた搬送を見る
西宮市内に入ると、阪急電車の北口駅近くの線路上では大けがをした人なのか、遺体なのか遠目で分かりませんでしたが、男たち数人が畳に載せて搬送していたのに衝撃を受けました。
まさに戦場を思わせる現地状況でした。もつとも私は戦地を知りませんが。
市内を通り抜けると、ペチャンコになつたマンションや家屋が倒壊しておりましたが、救出にあたる人たちの影はほとんど見当たりません。
既に地震が起きてから24時間過ぎており、緊急の救助活動は一段落していたのかもしれません。
余震で隣家が倒壊・知人が亡くなる
父の住んでいた住宅は今にも倒壊しそうな様子で、素人目にも室内に入れる状況ではありません。
家財の搬出はあきらめ、早々に近くの妹宅へ向かいました。
残念なことに、父が住んでいた向かいの棟がその夜の大きな余震で倒壊して、避難所から一時帰宅していた人が、押し潰され亡くなつたと後に妹から聞いたのでした。
年末に購入した大型冷蔵庫が盗まれた!
父が住んでいた住宅もその後解体されたそうですが、妹によると地震直前に買い替えた大型冷蔵庫は盗まれていたそうです。
人の不幸に付け込む火事場泥棒はどこにでもいるのですね。
妹の家も入り口扉が壊れて締まらない状態でした。
無人にすると同様の被害にあいかねません。
新たな家が見つかるまでは、友人の好意で近くのマンションに身を寄せることになっていたので、大事な荷物を運び込みました。
こんな人間にはなりたくない!
作業が一段落して休息をとつていると、隣家のクリーニング店へ慌てて飛び込んできた若い男がいました。
大地震の翌日ですから開店できない事情もあったのか、店は開いていないのです。
その男は今日の仕上がり約束なのに、何で店が開いていないんだ、と大声で悪態をついていました。
なんでも今日から海外旅行に行く予定で、クリーニング依頼した服で出発するはずだつたのです。
飛行機が平常通り運航できないのは判断できるはずなのに、私たちは内心では「この馬鹿たれが」と冷ややかな眼で彼を見ていました。
このような状況ならば、「代わりの服で我慢して行けよ」と。
いざという時に人間の本性が分かると良く聞きますが、彼のような人間には誤ってもなりたくないものです。
(続く)
#画面をクリツクすると、商品詳細が見れます#
#太字のタイトルをクリツクするだけでそれぞれのブログへ移動できます#